文明開化が進む明治初期、1874(明治7)年10月12 日。福沢諭吉は、イギリス留学中の愛弟子・馬場辰猪に一通の手紙を送りました。その中で彼は、「兵乱はすでに治まったが、人々の心の動揺はまだ収まらない」と記しています。ここで言う「マインドの騒動」とは、明治改元からわずか七年しか経っていない当時の社会に、なお強く残る精神的混乱のことを指します。
この混乱の源流として、一般に1853 年のペリー来航が挙げられます。黒船来航は、東アジアにおけるアメリカとイギリスの勢力争いの一場面に過ぎませんでした。しかし日本にとっては、自国の外交・軍事、そして文明観全体を揺さぶる大事件でした。黒船に関する噂は数日から十数日の間に全国へ拡散し、瓦版(当時の新聞のようなもの)には「ペリーの似顔絵」や黒船の図が次々と載り、庶民の想像力を大きく刺激しました。
黒船以降、日本は「幕末期」へと入り、物価が急騰し、人馬の往来が増え、江戸や京都には落首(落書き)や狂歌が溢れました。社会がざわつき、庶民の心が揺れ動いていたことは、多くの史料から読み取れます。
1|幕末政争―尊王攘夷か、開国か
この人心の動揺を背景に、幕末の政治的対立が表面化します。よく知られるように、
- 尊王攘夷(天皇を敬い、外国勢力を排除する)
- 開国佐幕(外国と交渉し、幕府を支える)
という二つの路線が基本的な対立軸となりました。ただし、この二つの勢力は後年になると目的が変質し、明治維新へと転がり込む過程で、単なるスローガンとして機能していくようになります。
しかし興味深いのは、これら二つの路線が激しく対立しつつも、気づかぬうちに共通の視野を育てていったという点です。その視野とは、
- 「西洋」の発見(西洋への強い関心)
- 「日本」の発見(国民国家的な自己認識の芽生え)
という、近代日本の知的水準を決定づけるものでした。
2|「西洋」の発見
黒船来航以降、日本人の視線は否応なく西洋へ向かいます。幕府はもちろん、諸藩の志士たちも、欧米の軍事力・技術力の高さを思い知らされ、西洋研究に強く駆り立てられました。
2-1|吉田松陰の「密航未遂」
1854 年、ペリー再来航の際、吉田松陰は下田からペリー艦隊への密航を試みます。前年にはロシア艦への乗船を求めて長崎へ赴くなど、欧米を直接見なければならないという切迫感に突き動かされていました。彼が書いた「夷情を審(つまび)らかにせずんば、何ぞ夷を御するを得ん」という言葉は、当時の知識人の危機意識を端的に示しています。
2-2|長州藩の急進性
攘夷を掲げた長州藩は、皮肉なことに最も積極的に西洋を学んだ藩でもあります。1863 年、下関で欧米艦船を砲撃していたその最中に、井上馨や伊藤博文らはロンドンへ密航留学しました。藩内の攘夷思想と、西洋研究の必要性は矛盾するようでいて実は表裏一体でした。
2-3|幕府の大規模使節団
幕府も1860 年以降、計七度の使節団を欧米に派遣し、多数の留学生も送り出しました。福沢諭吉の欧米経験も、使節団への随行を通じて得られたものです。
2-4|欧米体験の衝撃
西洋を視察した多くの日本人は、軍事力だけでなく、技術、制度、思想、文化の総合力に圧倒されました。江戸時代の価値観を覆す体験は、西洋研究の土台となり、日本人の知的関心を大きく広げました。
3|西洋事情―福沢諭吉が描いた「文明の全体像」
福沢の思想家としての出発点は、まさにこの欧米経験でした。彼の代表作『西洋事情』(1866~70)は、刊行前から写本が出回り、偽版が作られるほどの人気となります。
3-1|内容の広さと深さ
本書では、政治制度・税制・紙幣・会社制度・兵制・学校制度・図書館・病院、さらには蒸気機関やガス灯に至るまで、欧米の社会制度や技術を徹底的に紹介しています。
政治については、君主制・貴族制・共和制の三類型を示し、文明国家の条件として
- 自由
- 信教の自由
- 技術・文学の奨励
- 教育の普及
- 法による支配
- 社会施設の整備
を挙げています。
こうした知識が初めて体系的に提示されたとき、日本の読者に走った衝撃は計り知れません。
3-2|「人間」や「家族」概念の刷新
福沢は「人間とは何か」という根源的な問いにまで踏み込み、人間の尊厳や家族の在り方について新しい視点を提示しました。アメリカ独立宣言の “all men are created equal” を「億兆皆同一轍」と訳したり、後に『学問のすゝめ』の冒頭につながる文章を整えていきます。
3-3|“Liberty”をどう翻訳するか
福沢が最も苦心したのは “liberty” の翻訳でした。単に「自由」と訳しても当時の日本人には真意が伝わらないとし、
- 「心のままに行動して窮屈さを感じないこと」
- 「差しつかえなしという意味」
- 「御免状の“免”に近い概念」
など、多方面からていねいに説明しました。
『西洋事情』は、日本人にとっての「西洋=文明」の像を形づくった決定的な書物となりました。
4|岩倉使節団―世界を見て「日本」を知る
明治維新後、新政府は1871~73 年に岩倉使節団を欧米に派遣しました。岩倉具視を団長とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを含む総勢100 名近い大遠征でした。
この使節団は、
- 各国元首を訪問
- 不平等条約の改正交渉
- 欧米の制度・文化の視察研究
を目的としましたが、実際には ③の調査研究 に膨大なエネルギーが注がれました。
久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』は、政治・経済・社会・風俗に至るまで、欧米各国の実情を細密に記録しており、当時の世界の姿を知る一級史料となっています。
同時に、津田梅子や中江兆民など59 名の留学生を同行していた点も重要です。岩倉使節団は、日本の「大留学時代」の幕開けでもありました。
5|中国観の転換―中華的世界観からの脱却
西洋認識の深化は、同時に中国観の大きな変化をもたらしました。
5-1|アヘン戦争の衝撃
1840~42 年のアヘン戦争で清国が大敗したことは、日本に強烈な衝撃を与えました。「中華文明はもはや西洋に対抗できない」という現実が明らかになり、多くの書物が「中華敗る」と報じました。
その中でも特に影響が大きかったのが、清国の魏源による『海国図志』です。海防の観点から世界情勢をまとめたこの書は、日本で爆発的に読まれ、吉田松陰らも写本して学びました。
5-2|上海での実見が重要な転換点
幕末に欧米旅行をした日本人は、中国の港湾都市にも立ち寄りました。そこで目にしたのは、清国本土の混乱と、租界(外国人居留地)の整然とした街並みとの圧倒的な落差でした。中国が自らを「中華」と呼ぶ態度は、「尊大自窓(尊大で自分勝手)」に過ぎないと受け止められるようになります。
こうして幕末期は、日本人の中国像にとって「大きな暗転の時代」となりました。
6|「日本」の発見―国民意識の目覚め
ペリー来航がもたらしたもう一つの重要な変化は、「日本」という国の意識が急速に育まれたことです。
確かに「日本」という国号自体は7 世紀後半から存在していましたが、江戸時代までは一般の人々が「日本人」としての意識を持つことはほとんどありませんでした。
6-1|江戸時代の「天下」意識
江戸日本の人々は、「天下」という曖昧で広い概念を使っており、藩が政治的単位でした。「私の国」と言えば自分の藩を指すのが普通で、幕府が掲げる「日本」という意識は生活実感とは結びついていませんでした。
6-2|18 世紀後半の変化
18 世紀後半、西洋の船が日本近海に現れはじめると、海防意識の高まりとともに「日本」という単位が意識されるようになります。
- 林子平『海国兵談』(1786)
- 志筑忠雄『鎖国論』(1801)
などが生まれ、「日本とは何か」「鎖国とは何か」という言葉が登場しました。
6-3|国学の登場
さらに本居宣長に代表される「国学」が、日本固有の歴史・文化への関心を高め、「日本」という国民的カテゴリーの形成に大きく寄与しました。
7|「西洋」と「日本」の同時発見
ペリー来航以降、日本社会は大きく揺れ動きました。その揺れの中で、
- 西洋を知ろうとする気運
- 日本とは何かを問い直す意識
が同時に形成されていきました。
福沢諭吉の言う「マインドの騒動」とは、単なる不安や混乱ではなく、古い価値観が崩れ、新しい時代への知的模索が始まった、日本人の“大転換期”の姿だったと言えるでしょう。
