「明治ノ青年」と平民的欧化

日本近代思想各論 | 記事URL


 徳富蘇峰の主張する平民主義の核心は、民友社を興すに至る時期の二冊の著作『第十九世紀日本ノ青年及其教育」(一八八五年、のちに増補して『新日本之青年』八七年)、「将来之日本」(八六年)と、「国民之友』創刊号(八七年二月)に載せた「嵯呼国民之友生れたり」にみることができます(前二者は、植手通有編「徳富蘇峰集』〔明治文学全集訓、筑嘩書房、一九七四年〕所収)。それらで彼は、「世界ノ気迎」Ⅱ「天下ノ大勢」が「武備社会」より「生産社会」へ、「貴族社会」より「平民社会」へ転じつつあるとして、その大勢に則った改革のために、「天保ノ老人」に代る「明治ノ青年」の密起を促し、つぎのようにいい放ちます。

所謂る破壊的の時代漸く去りて建設的の現像将に来らんとし、東洋的の現像漸く去りて泰西的の現像将に来らんとし、旧日本の故老は去日の車に乗して漸く卿台を退き、新日本の青年は来日の馬に駕して漸く舞台に進まんとす。

「武備」と「生産」、「貴族」と「平民」、「破壊的」と「建設的」、「東洋的」と「泰西的」、「故老」と「青年」、「旧日本」と「新日本」などという歯切れのいい二分法と、それにもとづく、過去に代えての未来の提示は、若い世代を中心に熱狂的な支持を生み、蘇峰を諭地の寵児としました。「泰西の社会は平民的(中略)と雌も、此の文明を我邦に輸入するや(中略)、端なく貴族的の臭味を帯ひ」という彼の現状診断と、それにもとづく「平民的欧化主我」の提唱は、斬新な柵想として人びとを引きつけました。こういう主張を機軸とした「国民之友」は、当時の代表的な論客のほとんどすべてから寄稿をえたこともあって、商業的にもめざましい成功をみせました。

しかし蘇峰は、日清戦争を機として、のちに彼のいう「帝国主義」の立場に極じます。

ことに三国干渉は、彼を国家主義の熱烈な使徒としました。そののち彼の言論活動は一貫してその路線を歩み、アジア太平洋戦争(二八九頁参照)下での日本文学報国会、ついで大川本言論報国会の創立に当っては、会長に就任するに至ります。



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