「国粋」と世界への貢献

日本近代思想各論 | 記事URL


それにたいして阿枠主義は、そのように「欧化」をもって将来の日本を築くことへの反揃をもって出発しました。「国粋」とはnationalityを意味します。その国粋主義の基調は、志賀重昂が創刊当初の「日本人』に寄せた三篇の論文『日本人』の上途を賎す」(第一号)、『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」(第二号)、「日本前途の国是は「国粋保存旨義」に撰定せざるべからず」(第三号)に、もっとも明快に示されています。


それらのなかで志賀は、「日本将来の大経倫ハ実に日本在来の旧分子を悉皆打破し、泰西の新分子を以て之と交換するにあり」とする欧化主義にたいし、「泰西の開化を輪入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を岨咽し之を消化、日本なる身体に同化せしめん」と主張します。そこには日本の近代化を、西洋への同化の方向にでなく、選択的摂取によって、西洋の文物の日本への同化の方向に打ちだそうとする構想、そうしなければならぬとする使命感が息づいていました。それは、たとえば開化度凹程度の基盤の上に、開化度一○の西洋をいきなり輸入すれば、在来の文化は圧倒されてしまうだろうとの危機感でもありました。

同時に国粋主義は、欧化にたいして防禦の姿勢を固くするだけの思想ではありませんでした。川粋つまりそれぞれの特色を生かして、Ⅲ界への進出あるいは貢献をめざす思想でもありました。その点を志賀はこんなふうにいっています。


人々個々既に各自最特の長処あるが如く、邦国個々も亦最特の長処無かる可からず(中略)。人々個々の間に各自が最特の長処あるを以て、所謂分業なる者起ることなれば、邦叫個々も亦最特の長処を以て分業せざる可からざるや知るべし(中略)。分業にして果して経済世界の真理なり交易の起源なりとせば、「国粋保存」ハ即ち経済世界の真理に非ずして何んぞ。



こうして国粋主義は、「至理至義」であるばかりでなく「至利至益」の思想でもあると、ナショナリストたちは主張したのです。

彼らのなかで哲学者の風格をもつ三宅雪嶺は、「真善美日本人」(一八九一年)を著わして、そのような国粋主義の立場をこう定式化しました。いわく、「自国の為に力を尽すひ他は、世界の為に力を尽すなり。民種の特色を発揚するは人類の化育を禅袖するなり」。

とともに彼は、そこで日本人の美点を称揚した反面、『偽悪醜日本人』(同年)を書いて、日本人の欠点を指摘することを怠りませんでした。王陽明を好み、東洋の立場から西洋をも入れた世界哲学への志向をもっていました。また彼らのうち随一の政論家である陸朔南は、「近時政論考」二八九一年)をものし、みずからの立場を「国民諭派」と名づけて、維新以後の政論の展開のなかに位慨づけ、その立場を、外にたいしては「国民の特立」を、内においては「国民の統こを求めるものと規定しました。

このような文脈をもつ国粋主義は、政策としては、自由貿易にたいして保護貿易を、また欧米にたいして対等な権利の回復を主張し、妥協的な条約改正案への反対の急先鋒となりました。そういう態度と国民的自負心の提唱は、楢々たる欧化のまえに守勢一方に近かった守旧派を、しばしば勢いづかせ、また排外的な空気を高めたりもしました。




とともにそれは、資本主義化という大勢のまえに析出されてゆく「社会的弱者」に、初めて手をさしのべる思想ともなったのでした。三菱の経営する長崎県下の高島炭坑での坑夫虐待について、「三千の奴隷を如何にすべきや」というかたちで一八八八年、はなばなしく告発のキャンペーンを張ったのは、「日本人」でした。


啓蒙思想が、伝統の否定のうえに西洋の摂取を主張し、民権思想が、伝統のうちにも西洋と同質の思想をみいだしたのにたいし、国粋主義は、近代化が圧倒的に西洋化と認識されているなかで、非西洋型の、つまりもう一つの近代化への途を示そうとしたといえるでしょう。政府の、列強クラブへの加入を急ぐ政策にたいする鋼南の批判は、すこぶる捕烈です。「彼等が国交上に於て「対等‐」といふことは唯だ欧米に倣ふといふのみ(中略)。東洋国又は東洋人たるの恥辱を免れんと欲するに在り」(「国際論補遺」一八九三年)。

もっとも政策の遂行者には、彼らの経諭がありました。日浦戦争のさいの外相陸奥宗光は、「外交秘録」としての「けんけん録」(一八九五年)で、この戦争を「西欧的新文明と東亜的旧文明との衝突」と捉えています。


また国粋主義者たちは、アジアでの民族主義運動のもつ自己革新の力に注目しました。インドの独立連動を伝えたり、中国の革命思想家李卓吾を顕彰して、中国における李卓吾再発見のいとぐちを作ったのも、彼らでした。



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