国家構想から文化構想へ

日本近代思想各論 | 記事URL


自由民権連動の引き潮は、政府と反対派との国家建設の構想をめぐる競いあいが、終りに近づいたことを意味しました。政府は主導権をもって、内閣制度の樹立一八八五年)、学校制度の整備(八六年)、憲法の発布(八九年)、教育勅語の換発(九○年)、貴衆両院より成る帝国議会の開設(九○年)と、一気に大日本帝国の骨格を造りあげます。条約改正交渉を進めたことももちろんで、その進展をにらみつつ、商法・民法などの法典の整備がはかられてゆきます。

大日本帝国憲法は、天皇について、「万世一系」という正統性、「統治」権という主権、「神聖」という不可侵性を規定し、いわゆる天皇制を打ちたてますが、同時に、日本を立憲国家として出発させるための規範ともなりました。教育勅語は、この制度に、教育をとおして、精神を注入する機能を担うことになります。「国体」の観念がここで確立します。


国家の骨格のでき上がったことは、知識人のありように一つの変化をもたらしました。



啓蒙思想家たちの多くは官僚でした。彼らは政策決定者ではなくとも、政策立案者であり、少なくとも専門的知識を駆使する政策実行者でした。また民権思想家たちは、みずからの理念を政策化することに情熱を抱いていました。いずれの場合も言論主体と政策主体は二にして一で、両者は未分化だったとも、統一されていたともいえます。その意味で彼らは、経世家的知識人でした。

しかし民権運動の敗北と国家体制の樹立は、政治と思想との距離を拡げました。あるいは、亀裂を生みだしました。政策主体と言論主体は基本的に別の人格となり、後者はおおむね、前者となることを断念したうえで発言してゆくこととなりました。もとより両者を兼ね州えようとする人びとは絶無ではありませんでしたが、型としていえば、知識人は経世家から批判者・提言者へと変身しました。


国家建設の基本路線がそのように定まり、言論主体が政策主体から一定の距離を置かざるをえなくなるとともに、より長期的な視野でそれまでの川本の近代化を総括し、これからのありようを考えようとする機運が高まりました。そのとき主題として立ちあらわれたのは、欧化と国粋の問題です。近代化を、西洋を本位として行うべきか、そのなかで雌祝されがちな伝統を本位とする婆勢で行うべきかの、構想の提示と論争です。これは、西洋の衝撃を受けた非西洋圏では、ほぼ一様に抱かれた課題でした。

この問題は、日本が西洋の一員か、東洋の一員か、との自己認識への問いとして、近現代をつうじて人びとに抱かれてきています。が、それがもっとも鮮明に諭埴の主題となったのは、憲法体制樹立期というべき一八八○年代末’九○年代においてでした。この時期の諭埴で主役を演じた観のある平民主義と国粋主義が、それぞれの論点を代表しました。



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