平民主義と国粋主義

日本近代思想各論 | 記事URL


平民主義は、一八八七年、当時二五歳の徳窟蘇峰が民友社を興して掲げた旗峨です。

蘇峰は、本名猪一郎、その号の示すように阿蘇山の位置する熊本県の出身、新島製の同志社に学び、熊本で民権青年として活蹄してきました。二○歳で私塾大江義塾を附設、文筆活動でも頭角をあらわし、八六年に『将来之日本』を刊行、文名の揚がったのを機およびに出京して設立したのが、民友社でした。「政治社会経済及文学之評論」と銘打った総合雑誌「国民之友」を発刊、平民主義鼓吹の主要な場としました。誌名は、彼が愛読していたアメリカの自由主義的色彩の濃厚な週刊誌ご扇ぎ昌○言にもとづいています。彼は、少し遅れて「国民新聞」も創刊します。


国粋主義は、一八八八年、二六歳の志賀重昂や二九歳の三宅雪嶺(本名雄次郎←雄二郎)ら十数人が、雑誌の発刊を期して興した同人組織政教社で、社是とした主張です。

その雑誌は「日本人』と名づけられています(発禁措置により一時「亜細亜」と誌名変更)。志賀は三河国岡崎の出身、ウィリァム・クラークで名高い札幌賎学校の卒業生ですが、キリスト教にはむしろ反感をもちました。南洋諸島を巡って、列強による植民地争奪の実相を見聞、危機感を深めたことが、国粋主義への直接の契機となりました。雪嶺は加賀国金沢の出身、東京大学に進みますが、現世に密着する政治経済でなく哲学をたんどく専攻し、開化渦まく東京にあって、古今東西の書物の耽読にその青年時代を送りました。


この国粋主義の強力な別働隊となったのが、陸掲南(本名実)が社主兼主筆をつとめる一八八九年創刊の新聞「日本」です。掲南は陸奥国弘前の出身、進学した司法省法学校で退学処分を受け、青森新聞社や開拓使所轄の紋別製糖所を転々としたのち、太政官文書局に勤務という経歴をもっていました。抱懐する思想を日本主義(旨義)と称しましたが、基調は国粋主義と同じです。『日本人」と『日本」は、経営難に直面しての結果とはいえ、のち合流して、一九○七年から雑誌『日本及口本人」となります。

こうした担い手たちによる平民主義と国粋主義は、たぶん前者はひろく後者は深く人びとを触発しつつ、一九世紀末期の日本を代表する二つの思潮となりました。その僅頭は、さきにのべたように、国家の骨格が定まって近代化が問い直しの時期に入ったという機運を背景としていますが、そこには直接の引金となった状況がありました。鹿鳴館に象徴される欧化主義がそれです。条約改正のための手段でしたが、その華美さは人びとの耳目をそばだてて、迎合との印象を与えました。それに反応しつつ、平民主義は、鹿鳴館的風潮を「貴族的欧化主義」と批判するとともに、みずからを「平民的欧化主義」と位置づけ、他方で国粋主義は、欧化主義にたいしての国粋保存を掲げました。



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