新しい文化意識

日本近代思想各論 | 記事URL


平民主義と国粋主義は、こんなかたちで、日本の近代化がいかにあるべきかについての論点を川脈にしました。そうしてここで提起された欧化か国粋かの課題は、こののちどんな思想が創られる場合にも、一貫して意識の底に流れつづけることとなりました。



むしろ逆に、それが思想の創造へのばねになったともいえるほどです。若い日の夏目漱石・西田幾多郎・鈴木大拙・津田左右吉らはいずれも、その課題に立ち向かい、どうすれば内的な創造性を打ちたてうるかを思索するなかで、思想を形成してゆきました。克明な日記の残されている津田の場合、「国民之友」とくに「日本人』の吸収過程をはっきり辿ることができます。

それぞれのもつ立場性ゆえに、平民主義と国粋主義は、新しい文化意識の発芽をもたらしました。

平民主義の場合、「国民之友』は抜群に著名で多彩な執筆者陣を擁しました。民権家にの中江兆民・植木枝盛・田口卯吉ら、キリスト教徒の新島喪・内村鑑三・植村正久・新渡戸稲造・安部磯雄・浮田和民ら、社会問題研究家としての片山潜、文学者の森鴎外・坪内道遥・二葉亭四迷ら、学界人としての井上哲次郎・梅訓次郎ら、政官界の尾崎行雄・金子堅太郎らと数えてゆけば、編集人としての蘇峰の手腕に驚かざるをえません。

とくに文学者たちの寄稿を求めることで、近代文学の誕生にとって介添の役割を果しました。

民友社の場合、なかでも注目したいのは、新しい史論を興したことです。徳富蘇峰『吉田松陰』二八九三年)を初め、竹越三叉「新日本史』二八九一’九二年)、「二千五百年史」(九六年)、山路愛山「足利尊氏」(一九○九年)、『基督教評論。Ⅱ本人民史』(前者は一九○六年、後者は生前未刊)などが、代表的な作品です。民友社員たちによるそれらの作品には、田中彰が指摘するように、「貴族的欧化主義」に代る「第二維新」をめざす気持が、色濃く投影されていました(『明治維新観の研究』北海道大学図書刊行会、一九八七年)。


考証肥大に陥らず、闘達に歴史を論じる史論史学の気風は、日本の歴史学にとって貴重な遺産となっています。歴史への関心は国粋主義でもつよく、三宅雪嶺『同時代史」全六巻(岩波詳店、一九四九’五四年。原題「同時代観」として、主宰する雑誌『我観』に一九二六~四五年、延々と書きつがれました)は、市井のできごとへの卓抜な観察眼を随所に彼猟しながら、薩長的な王政復古史観とは一味も二味も異なる、編年的な近代史像を描きだしました。

政教社にそのほか、民友社員の史論史学に当る著作を求めれば、地理学の書物としての志賀重昂「日本風景論』(一八九四年)となりましょう。「想ふ浩々たる造化、其の大工の極を吾が日本に錘む」との立場から、日本の地勢・気候・植物・地質などの特色を、その地についての古人の文章や詩歌をも配しつつ、眼前に努龍とするよう叙述し、登山の趣味を奨め自然の保護を説いたこの書物は、自然科学的な観察眼をもちながらも従来の地理学の無味乾燥性・平板性を一変して、風土にたいする愛情を深めるものがありました。この作品によって彼は「日本のラスキン」(内村鑑三)と呼ばれました。

同時に国粋主義は、平民主義が西洋の文学動向に敏感に反応しつつ、新しい文学観念を育てていったのと対照的に、伝統的な文学の再生による新しい文学の樹立をめざしました。正岡子規の俳句・和歌の革新連動は、新聞「日本」を舞台として繰りひろげられています。「月次」とよばれるような惰性に陥っていたこれらの文芸は、子規によって新しい生命を吹きこまれたのです。そういう子規をみいだし、場を与え、庇誰しつづけたのは、掲南でした。



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