1880年代の半ば、日本列島を包み込んでいたあの激しい熱気は、まるで潮が引くように急速に遠ざかっていった。
ほんの数年前まで、日本中の盛り場や田舎の演説会場には、羽織袴姿の壮士たちが集い、汗を飛び散らせながら「自由民権!」と絶叫していた。地方の豪農も、都市の職人も、あるいはかつて特権を奪われた士族たちも、誰もが「自分たちの手で新しい国を造るのだ」という当事者意識に燃えていた。民衆が自発的に独自の憲法草案(私擬憲法)を書き上げ、五日市や五千石といった山あいの村々で、夜を徹して近代国家の青写真を議論した時代があった。
しかし、その激動のうねりは、政府の徹底した弾圧と、運動内部の分裂、そして何より「1890(明治23)年に国会を開設する」という明治天皇の公約(国会開設の詔)によって、徐々に制度の枠内へと回収されていった。激化事件を起こした過激派は捕らえられ、政党は解散に追い込まれ、民権運動の指導者たちもある者は沈黙し、ある者は政府の懐へと誘い込まれた。
自由民権運動の引き潮――。それは単に一つの政治運動が挫折したということにとどまらない。
それは、「この国をどのような形にするか」という国家建設の構想をめぐり、政府と民間、官と民が対等な地平で競い合っていたエキサイティングな時代の終焉を意味していた。主導権は完全に、東京・霞が関の、ごく一握りの官僚たちの手に握られたのである。
幕末の動乱から20年近くが経ち、維新の元勲たちも年老いていく中で、明治政府の指導者たち、特に伊藤博文を中心とする新世代のテクノクラート(官僚)たちは、強烈な焦燥感に駆られていた。彼らの眼前に迫っていたのは、容赦ない西洋列強の帝国主義という現実である。不平等条約を改正し、日本が独立を全うするためには、もはや一刻の猶予もなかった。「文明国」としての体裁をまたたく間に整え、西洋諸国に「日本はあなた方と同じ近代的な法治国家である」と認めさせなければならない。
ここから、日本の姿を根底から変える、息をもつかせぬ「上からの国家建設」がスタートする。それは、あたかも巨大な建築物の骨組みを、設計図通りに超高速で組み上げていくような、凄まじい国家事業であった。
1 大日本帝国の骨格――一気呵成の制度建築
1880年代後半からの数年間、明治政府が展開した制度改革のスピードは、現代の私達の想像を絶するものがある。それはまさに、大日本帝国という名の巨大な造形物を、一気呵成に造りあげる猛烈な突貫工事だった。
1885(明治18)年:内閣制度の樹立
まず政府は、太政官制という維新以来の古い政治システムを廃止し、内閣制度を導入した。初代内閣総理大臣に就任したのは、長州藩の足軽出身でありながら、ヨーロッパの憲法事情を貪欲に学んできた44歳の伊藤博文である。
それまでの政治は、公家出身の三条実美や岩倉具視といった象徴的な人物をトップに戴き、藩閥の有力者が合議で決めるという、多分に旧態依然としたシステムだった。しかし、これから誕生する「憲法」や「議会」を運営するためには、各省庁の責任を明確にし、行政を効率的に統括する近代的な首班(総理大臣)が必要不可欠だった。この内閣制度の確立により、天皇を補佐して国政を動かす「官僚制のトップ」としての内閣が誕生した。
1886(明治19)年:学校制度の整備(帝国大学令・師範学校令など)
国家の骨格を支えるのは、突き詰めれば「人」である。初代文部大臣に就任した森有礼は、国家の発展に奉仕する人材を育成するため、学校制度の大規模な再編へと乗り出した。
一連の「学校令」により、ピラミッド型の教育体系が完成する。その頂点に君臨したのが「帝国大学(のちの東京帝国大学)」である。ここは、国家を動かす優秀なエリート官僚を養成するための機関と位置づけられた。同時に、全国の子どもたちを教育する教師を育てるため、厳格な規律を重んじる「師範学校」が整備された。森有礼の教育改革は、個人の幸福や学問の自由のためではなく、徹底して「国家の富強」を目的とする、きわめて功利主義的でナショナルなものであった。
1889(明治22)年2月11日:大日本帝国憲法の発布
そしてついに、近代国家の絶対的な象徴である「大日本帝国憲法」が発布される。
この日の東京は、お祭り騒ぎだった。雪の降る中、市民たちは万歳を叫び、提灯行列を行い、街には「憲法」にあやかった「憲法割」「憲法団子」といった便乗商品まで溢れかえった。しかし皮肉なことに、大騒ぎしている民衆は、その憲法の中身をまったく知らされていなかった。憲法は、天皇が臣民に授けるという形式の「欽定(きんてい)憲法」であり、極秘裏に起草され、国民には一切の議論が許されないまま、完成品として頭上から降ってきたのである。
1890(明治23)年:教育勅語の渙発と帝国議会の開設
憲法発布の翌年、さらに二つの決定的な楔(くさび)が打ち込まれる。
一つは、国民の道徳的規範を天皇の言葉として示した「教育勅語」の渙発(かんぱつ)である。これにより、学校教育を通じてすべての日本国民の精神に、国家への忠誠が埋め込まれることとなった。 そして同年11月、公約通り、衆議院と貴族院からなる「帝国議会」が開設される。アジアで最初となる本格的な近代議会の誕生であった。
さらに、これらの政治制度と並行して、裏ではもう一つの戦いが進んでいた。条約改正交渉である。
幕末に結ばれた不平等条約(領事裁判権の容認、関税自主権の欠如)は、日本が一人前の独立国として認められていない証拠であり、国家の安全保障上も、経済上も、最大の足枷だった。外務大臣の井上馨らは、鹿鳴館を建設して夜な夜な西洋風の舞踏会を開き、「日本はこれほど国際化している」とアピールしたが、西洋列強の反応は冷ややかだった。彼らが求めたのは、ダンスのステップではなく、「西洋と同等の法律が整備されているか」という点だった。
そのため政府は、フランスの法学者ボアソナードらを招聘し、商法や民法などの法典整備を急ピッチで進めていった。伝統的な家族観を守ろうとする保守派からの「民法出でて忠孝滅ぶ」といった猛烈な反発(民法典論争)に直面しながらも、条約改正という至上命題を睨みながら、日本の法制度は急速に西洋化されていったのである。
こうして、1885年から1890年までのわずか5年ほどの間に、内閣、学校、憲法、教育、議会、法律という、近代国家に必要なすべてのパーツが、まるでドミノを並べるように、一気呵成に揃えられた。ここに「大日本帝国」という精緻なシステムが落成したのである。
2 天皇制と「国体」のセーフティネット
この突貫工事で造りあげられた「大日本帝国」というシステムの中核には、どのような思想が埋め込まれていたのだろうか。それを解き明かす鍵が、大日本帝国憲法における天皇の規定と、教育勅語による精神支配である。
天皇という「絶対的中心」の創出
伊藤博文らがヨーロッパ(特にプロイセン)で憲法を学んだ際、直面した最大の課題は、「日本の統合の軸をどこに求めるか」という点だった。
ヨーロッパの近代国家には、数百年かけて培われた「キリスト教」という精神的な基盤(宗教的紐帯)があった。法律や国家の権威の根底には、神の存在がある。しかし、当時の日本には、国民全員を強固に結びつけるそのような共通の宗教がなかった。仏教は寺請制度の腐敗で信頼を失い、神道もまだ国教としての市民権を完全に得ていたわけではない。長年、藩ごとの細切れの世界に生きてきた民衆に、「日本国民」としての連帯感を持たせるための「機軸」が決定的に不足していたのである。
そこで伊藤が目をつけたのが、「天皇」だった。伊藤は憲法制定の際、次のように語っている。
「我が国において機軸とすべきは、ただ皇室の一事のみこれあり」
大日本帝国憲法は、この天皇を極めて特殊な、多面的な存在として定義した。
- 「万世一系」という正統性:神話の時代から一度も途切れることなく続いてきた血統であるとし、歴史的な絶対性を付与した(第1条)。
- 「統治」権という主権:国の最高権力者であり、陸海軍を統帥し、宣戦布告や講和を行う権限を一手に握る存在とした(第4条・第11条など)。
- 「神聖」という不可侵性:天皇は法律を超越した神聖な存在であり、その責任を追及することはできないとした(第3条)。
これによって、日本特有の国家体制、いわゆる「天皇制」が法的に確立された。天皇は、近代的な国家元首であると同時に、古代的な宗教権威でもあるという、極めて強固なハイブリッド型の権力者となったのである。
立憲主義という「檻」
しかし、ここで見落としてはならないのは、大日本帝国憲法が単なる「天皇の絶対独裁」を認めた書物ではなかったという点だ。それは同時に、日本を近代的な「立憲国家」として出発させるための、厳格なルールブック(規範)でもあった。
憲法は、天皇の権能を規定すると同時に、その権能が「憲法の条規に依り之を行う」ものとした。つまり、天皇といえども、憲法というルールの枠内でしか権力を行使できない仕組みになっていたのである。
さらに、国民(臣民)に対しては、「法律の範囲内」という条件付きではあったが、信教、居住、言論、集会などの身体・精神の自由や、財産権の不可侵が初めて明文化された。また、政府が税金を徴収するためには、必ず国民の代表が集まる「帝国議会」の協賛(同意)が必要であるとされた。
つまり、この憲法は、天皇という絶対権力を戴きつつも、同時にその権力を近代的な手続きのなかに閉じ込めるという、極めて高度で危ういバランスの上に成り立つ「立憲君主制」のシステムだったのだ。
教育勅語による「精神の注入」
だが、どんなに立派な制度や憲法という「ハコモノ」を造っても、その中で生きる人々の心が伴わなければ、国家という機械は機能しない。特に、議会が開設され、国民に政治的な権利の一部が与えられたことは、政府にとっては諸刃の剣だった。もし国民が、利己主義に走り、国家の統制を無視して暴走し始めたら、このかよわき近代国家は内側から崩壊してしまう。
法律という冷たい命令ではなく、国民の「魂」に直接働きかけ、国家への自発的な忠誠を誓わせるための「ソフトウェア」が必要だった。その役割を担ったのが、1890年に渙発された「教育勅語」である。
教育勅語の文章は、「我が皇祖皇宗、国を興すこと宏遠に……」という厳かな文体で始まる。そこで説かれたのは、親孝行(孝行)、兄弟の仲良さ(友愛)、夫婦の調和(和諧)といった、一見すると誰もが否定できない儒教的な美徳だった。しかし、この勅語の真の狙いは、後半の数行に集約されている。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
(ひとたび国家に危機が迫ったならば、正義と勇気をもって国家のために命を捧げ、永遠に続く天皇家の運命を支えよ)
日常の道徳(親孝行など)を守ることは、最終的に「国家のために命を捧げること」へと直結している――。教育勅語は、学校教育という最も強力な装置を通じて、全国の子どもたちに毎日暗唱され、儀式のたびに最敬礼の対象となった。
ここに、「国体(こくたい)」という観念が完成する。国体とは、「万世一系の天皇が統治する、家族のような、世界に類を見ない清らかな国・日本」という、聖なる国家アイデンティティである。
大日本帝国という制度の骨格に、教育勅語という導管を通じて「天皇への忠誠心」という精神の血液が注入された。これによって、国民は「自立した市民」としてではなく、「天皇の赤子(せきし)」として、国家の部品となることを内面から受け入れていくことになったのである。
3 知識人のパラダイムシフト――「経世家」から「批判者」へ
国家の骨格がこのように急速に組み上がっていく光景を、当時の知識人たちはどのような思いで見つめていたのだろうか。
この時代、日本の知性を代表する人々のありよう(存在形態)に、ドラスティックな地殻変動が起きていた。それは、政治と思想の幸福な合一の時代が終わり、知識人が「国家の設計者」から「疎外された傍観者・批判者」へと変貌していくプロセスであった。
「経世家的知識人」の幸福な時代
明治の初頭、知識人と呼ばれる人々は、例外なく政治の当事者であった。彼らは「経世家(けいせいか、世を治め、民を救う者)」だった。
たとえば、日本に西洋の自由主義思想を紹介した福沢諭吉や、中村正直、西周(にしあまね)といった啓蒙思想家たちの多くは、もともと幕臣や各藩の秀才であり、明治政府の「官僚」を兼ねていた。彼らは単に机の上で翻訳書を読んでいたのではない。彼らは、新しい近代的な政策を決定する権限は持たずとも、その政策を具体的に立案し、西洋の概念を「翻訳語(権利、社会、自由など)」として定着させ、実務を実行するプロフェッショナル(テクノクラート)そのものだった。
一方、政府の専制を批判した民権思想家たち(中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪ら)もまた、本質的には同じ「経世家」だった。彼らは政府を激しく攻撃したが、それは政治から離れて冷ややかに批判するためではない。「みずからの理念(フランス流の自由主義や、急進的な民主主義)を、明日の日本の具体的な政策として実現したい」という、燃えるような政治的情熱に突き動かされていたからだ。
この時期、「言論主体(言葉を語る者)」と「政策主体(現実の政治を動かす者)」は、二にして一であり、両者は未分化だった。
自分が語る言葉は、そのまま国家の形を変える刃や楔になり得た。思想と政治の間に幸福な一致があり、知識人たちは「自分たちがこの国の進路を決めているのだ」という圧倒的な当事者意識(コミットメント)を持つことができたのである。
| 時代 | 知識人のタイプ | 言論主体と政策主体の関係 | 主な役割 |
| 明治初頭〜1880年代半ば | 経世家的知識人 (啓蒙思想家・民権思想家) | 未分化・統一 (言論と政策が直結している) | 政策の立案、実行、新しい国家構想の提示 |
| 1890年代以降 | 批判者・提言者 (専門学者・ジャーナリスト) | 分離・亀裂 (政治の現場から閉め出される) | 国家への批判、異議申し立て、客観的な提言 |
政治と思想の引き裂かれた「亀裂」
しかし、1880年代末、国家体制の樹立が完了した瞬間、この幸福な時代は残酷に幕を閉じた。
伊藤博文らによって張り巡らされた官僚制のネットワークは、きわめて強固で排他的なものだった。今や、国家の政策を決めるのは、東大を出て高等文官試験をパスした「専門官僚(キャリア)」だけであり、民間の言論人がどれほど高邁な理想を語ろうとも、それが実際の政策に反映されるルートはピシャリと閉ざされてしまった。民権運動の敗北は、「素人が国家建設の理想を語る時代」の終わりを告げていた。
ここに、政治と思想の間の決定的な距離、あるいは修復不可能な「亀裂」が生み出された。
「政策主体(現実を動かす人格)」と「言論主体(言葉を紡ぐ人格)」は、完全に別の人格へと引き裂かれた。民間の知識人たちは、もはや自分が政治の主役になることを断念せざるを得なくなった。彼らは、霞が関や永田町の「外側」に閉め出され、冷たい風が吹く野にあって、内閣や議会の動きを遠巻きに眺めるしかなくなったのである。
もとより、徳富蘇峰のように、新聞というメディアの力を駆使して、言論の側から国家の舵取りに参画しようとする「両者を兼ね備えようとする人びと」が絶無だったわけではない。しかし、大勢としての「型」でいえば、知識人の役割は劇的に変化した。彼らは、自ら国を造る「経世家」から、政府の行き過ぎをチェックする「批判者」、あるいは外部からアイデアを出す「提言者」へと、その身分を格下げ、あるいは変身させられたのである。
この変化は、日本の知性に深い屈折をもたらした。近代化というお祭りが、政府の手によって「完成」してしまった後、知識人たちは激しい虚脱感と、政治への無力感に襲われることになる。この屈折が、のちの1890年代後半(明治30年代)における、文学の内面化(自然主義文学)や、個人の内面への沈潜(「煩悶青年」の登場)へと繋がっていくのである。
4 欧化と国粋――引き裂かれる日本のアイデンティティ
国家という「ハコモノ」が完成し、政治の現場から一定の距離を置くことを余儀なくされた知識人たちは、より長期的な、より本質的な視野で、それまでの日本の歩みを振り返り始めた。
彼らの前に、巨大な問いとして立ち塞がったのが、「欧化(おうか)」と「国粋(こくすい)」の問題である。
「我々は、この20年間、一体何をやってきたのだろうか?」
振り返れば、明治維新以来、日本はなりふり構わぬ「西洋化」を突き進んできた。「文明開化」の名のもとに、チョンマゲを切り、洋服を着て、レンガ街を歩き、牛肉を食べた。制度も、法律も、軍隊も、すべて西洋の真似事だった。
しかし、この近代化のありようは、本当に正しいのだろうか。
近代化とは、「西洋の基準(本位)をそのまま受け入れ、自らを西洋化すること」なのか。 それとも、激しい激動のなかで切り捨てられ、踏みにじられそうになっている「日本の伝統や固有の文化を本位として、主体的に近代化すること」なのか。
この問いは、決して日本だけの特殊な悩みではなかった。19世紀、圧倒的な軍事力と経済力で世界を席巻した西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた非西洋圏――清朝中国、オスマン帝国、ロシア、エジプトなど――が、ほぼ一様に抱き、もがき苦しんだ共通の、そして普遍的な過酷な課題であった。
「西洋の技術(科学や軍事)は受け入れるが、魂までは売り渡さない」
そう叫んで、東洋の伝統を死守しようとする保守派と、「遅れた伝統などすべて破壊し、根底から西洋人になるべきだ」と主張する急進的西欧化主義者の対立は、非西洋圏の近代化の歴史そのものであった。
日本において、この問題は「自分たちは西洋の一員(文明国)なのか、それとも東洋の一員(アジア)なのか」という、引き裂かれた自己認識(アイデンティティ)への問いとして、明治、大正、昭和、そして現代に至るまで、日本人の精神の底流にずっと流れ続けている。
そして、この「欧化か、伝統か」という議論が、最も鮮明に、そして最も知的なエネルギーを伴って論壇の主題となったのが、まさに憲法体制の樹立期である1880年代末から1890年代にかけてであった。
この時期、鹿鳴館に象徴される政府の軽薄な「極端な欧化政策」に対する激しい嫌悪感が、知識人の間で爆発した。その対立の主役として、論壇の最前線で激しい火花を散らしたのが、徳富蘇峰が率いる「平民主義(へいみんしゅぎ)」と、三宅雪嶺や志賀重昂(しがしげたか)らが唱えた「国粋主義(こくす主義)」であった。
5 言論の闘技場――平民主義vs国粋主義
1880年代末、日本の言論界は、二つの新しい思想的潮流の登場によって沸き立った。彼らは、政府の「上からの藩閥政治」を批判点では一致しながらも、日本の「これからのありよう」については、全く異なる魅力的なヴィジョンを提示した。
徳富蘇峰と「平民主義」(民友社)
1887(明治20)年、熊本出身の20代の若きジャーナリスト、徳富蘇峰は、言論団体「民友社」を設立し、雑誌『国民之友』を創刊した。彼が唱えたのが「平民主義」である。
蘇峰の思想の底流にあったのは、圧倒的な「時代の進歩への信頼」だった。彼は、人類の歴史は「武備(軍事)の時代」から「生産(経済・産業)の時代」へと向かっているという、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーらの社会進化論に強い影響を受けていた。
蘇峰の論理はこうだ。
明治政府が進めている近代化は、一握りの特権的官僚(藩閥)が、軍隊を増強し、上から国民をコントロールしようとする「武備の欧化」に過ぎない。そんな偽物の欧化は、国民を疲弊させるだけだ。
真に日本が目指すべきは、特権階級のためではなく、普通に働き、生産活動を行う一般の民衆――「平民」が主役となる社会である。
蘇峰は、西洋の近代化の本質を、華やかな鹿鳴館のダンスではなく、「生産力、産業、そして個人の自由」にあると見抜いていた。だからこそ、彼は日本が徹底して西洋的な「生産の国」に生まれ変わるべきだと主張した。彼の「欧化」は、伝統を盲目的に破壊することではなく、日本の民衆のエネルギーを解放するために、西洋の民主的・産業的なシステムを徹底的に取り入れようとする、きわめてダイナミックな「下からの欧化論」だったのである。
三宅雪嶺・志賀重昂と「国粋主義」(政教社)
蘇峰の平民主義が論壇を席巻するなか、これに真っ向から異を唱える若者たちが現れた。1888(明治21)年、三宅雪嶺や志賀重昂らは「政教社」を結成し、機関誌『日本人』を発刊。彼らが掲げた旗印が「国粋主義」であった。
「国粋主義」という言葉は、後年の昭和期における極端な排外的・軍国主義的なニュアンス(超国家主義)とは毛色が異なっていた。当時の彼らの主張は、極めて理性的で、文化的な防衛論であった。
彼らの主張の核は、「国体(国の個性)の保存」である。
志賀重昂は名著『日本風景論』などで、日本の気候、地勢、豊かな自然が育んだ独自の美意識や倫理観を称賛した。三宅雪嶺は、世界文明の発展は、ひとつの色(西洋)に染まることではなく、それぞれの民族が独自の個性(真・善・美)を発揮し、それを持ち寄ることで達成されると考えた(「真善美」の議論)。
彼らは言った。
「もし日本が、西洋の真似ばかりをして、自らの個性を失ってしまったら、世界の中で日本という国が存在する価値(アイデンティティ)はなくなってしまう。西洋の優れた文明(技術や制度)は貪欲に学ぶべきだ。しかし、それはあくまで『日本の固有の骨格(国粋)』を維持した上で、それを補強するために取り入れるべきなのだ」
これは、盲目的な攘夷(排外主義)ではない。西洋の偉大さを十分に認めた上で、「では、我々日本人の独自の価値はどこにあるのか」を必死に模索した、極めてモダンで知的な「ナショナル・アイデンティティの探求」だったのである。
二つの主義が残した地平
「西洋化の徹底によって平民の国を造る」という蘇峰の平民主義と、「日本の個性を守りつつ近代化する」という政教社の国粋主義。
この二つの奔流は、1890年代の日本の論壇を二分する一大論争を展開した。しかし、歴史の皮肉というべきか、この両者の熱い議論は、1894(明治27)年に勃発した日清戦争という巨大な現実によって、急速に一つの方向へと収斂していくことになる。
戦争という圧倒的な国家の危機の前に、平民のエネルギーを賛美していた蘇峰は「国家の膨張(帝国主義)」へと急速に傾斜し、のちに政府の御用記者へと変貌していく。国粋主義者たちもまた、文化の多様性の主張から、国家の優位性を称賛する頑迷なナショナリズムへと変質していった。
しかし、彼らが憲法体制樹立期という短い結節点において、命を削るようにして戦わせた「欧化か、伝統か」「日本はどこへ向かうべきか」という深い問いかけは、その後の日本の近現代史のあらゆる局面に形を変えて現れる、尽きることのない伏流となったのである。
6 近代の「枠組み」が完成したとき
1890(明治23)年11月29日。第1回帝国議会の開院式に臨んだ明治天皇の姿を、近代日本のシンボルとして見つめながら、人々はある種の感慨にふけっていた。
わずか20数年前まで、この国には「日本」という統一された意識は希薄で、人々は「薩摩人」「長州人」「会津人」として生きていた。それが今や、一本の目に見えない巨大な糸――「大日本帝国憲法」と「教育勅語」――によって、4千万人を超える人々が「日本国民」という一つの運命共同体に、文字通り縛り付けられ、あるいは統合されたのである。
政府の冷徹なエリートたちが主導した「上からの国家建設」は、見事なまでの成功を収めた。日本はアジアで唯一、欧米列強の植民地となることを免れ、それどころか法制度を整えることで、1894年には悲願だった領事裁判権の撤廃(条約改正の一部達成)に漕ぎ着ける。ハードウェアとしての近代国家は、ここに一応の「完成」を見た。
しかし、その輝かしい成功の裏側で、日本人はあまりにも大きな代償を支払っていた。
かつて、自由民権運動の時代に、市井の民衆が夢想した「誰もが主役となり得る、自由で多様な国の形」という可能性は、天皇を中心とする強固な中央集権のピラミッドの中に永遠に葬り去られた。知識人たちは、国家を動かす当事者であることを諦めさせられ、政治という巨大な怪物に対する、果てしないコンプレックスと無力感を抱えながら、言論や文学という狭い部屋に閉じこもるようになった。
そして何より、「欧化」と「国粋」の論争が示したように、日本人は「西洋の真似物」として生きるべきか、「東洋の伝統」に生きるべきかという、自己の引き裂かれたアイデンティティに対する、明確な答えを見つけられないままだった。この、内面に抱え込んだ深い歪みと焦燥感が、のちに日本を、アジアへの侵略と、自己を神格化する破滅的な超国家主義の道へと暴走させていく、狂気のエネルギーの源泉となっていく。
1890年、大日本帝国の骨格が落成したその瞬間。
日本は「文明国」の切符を手に入れた。しかしそれは、二度と引き返すことのできない、近代という名の果てしない迷宮への入り口に、国民全員が足を踏み入れたことを意味していたのである。
